2018/03/04 Category : 雑多 舞台の上 種をまくのに適したある日、近代的な図書館で面白くなかった芝居に興味があるふりをした話をしてくださいさみしいなにか 丸い形をした図書館は、有名な建築家がデザインした斬新なデザインだそうで、そう言われれば斬新なんだろうなあ、とわたしは思う。円の中心に集うカウンターと閲覧席は、光を取り込むようにとられた窓のおかげでどこまでも明るい。その一方で、中心から外れた外周は背の高い書架と相俟って薄暗い。そこにいるといつだって、光に寄ることのできないかなしい生き物になったような気分になった。 あるいは、そう。規則正しく並べられた書架の隙間から、光に照らされた中心部を覗くたび、眩いステージに立つ誰かのことを思い出す。そして、そのステージを眺めているしかできない、客席に座る誰かのことも。 しゃがみこんだわたしの目に映るのは文学書の背中ばかりだ。欲しいタイトルは確かに覚えているのに、目でなぞっていくうちにそれを通り越してしまう。さまよう指先をひとつひとつ、本の背に押しつけては唇でタイトルを紡ぐ。幾度もそれを繰り返してようやくたどり着いた本の頭に人差し指の先端をひっかけ、そっと本の列から抜いた。 ゆっくり立ち上がる。昼間だというのに薄暗い図書館の隅で覚えた立ち眩みは、わたしの目の前を一瞬だけ真っ白にした。スポットライトが当たった瞬間のような熱と眩しさはあっという間に過ぎ去り、ゆっくりと元の薄闇が戻ってくる。微かな頭痛に額をおさえたわたしの横で、その人はなんにも言わずにひっそりと立っていた。「探していたのは、それ?」「うん。でも、もう一冊探さなきゃ」「そう」「先に閲覧席に戻ってて良いよ」「ううん、待つよ。一緒にいる」 わたしの拒絶はいつだって受け入れられない。その陰にあるほの暗い感情を知ってか知らずか、横に立っていた男は薄く笑ったようだった。「それ、読みたかったのかい」「うん」「この前の舞台の原作だ」「うん」「あの舞台、気に入ってくれたの?」「……うん」 嘘だ。ひきつりそうになる喉を必死に誤魔化しながら、わたしはその人に視線を向けないまま小さく頷いた。嘘だ。真っ赤な嘘だ。腕に抱えた本を抱きしめるふりをして力を込める。本に命があったならきっと、苦しいと泣き叫んでいただろう強さで絞め殺す。まったく面白くもなければ興味もなかった舞台の原作は、わたしのまったく見当違いな八つ当たりを受けて小さく軋み声をあげた。 ふらりと一歩を踏み出したわたしの後ろをついてくる気配がする。どうやらわたしを一人にはしてくれないらしい。明るいところと暗いところの境界線を越えないように、足下にばかり目を向けていたわたしは、探していた書架を通り過ぎたことに気付いて緩慢に振り返った。そこにはやはり、わたしと数歩分の距離を置いた男が穏やかな表情で立っていて、少しだけ呼吸を忘れてしまった。光の射さない空間でも、この男はなぜこんなにもきれいな顔でいられるのだろうかと、抱きしめ続けている本に問う。答えは返ってこない。「どうしたの」「なんでもない」「そう」「うん」 男の横をすり抜けて、書架と書架の間に逃げ込んだわたしの耳に届くのは足音だ。振り返らない。きっと男はあの、怒りも悲しみも喜びもない、ただただ穏やかな顔をしているだろう。舞台の上で演技している時の方がよほど人間的だ。舞台を降りたとたん人間らしさが鳴りを潜めてしまうこの男のことを、わたしは怖れている。なにをいってもなにをされても穏やかな表情を崩さない美しい男を、わたしはきっと、誰よりも怖れている。 男がわたしの横に立つ。衣擦れの音に意識を向けないよう、さっきと同じことを繰り返した。目と指先でタイトルを一つ一つなぞりあげていくのは、まるで、人の背骨をなぞる行為に似ていると、ふと思う。あるいはあばら骨をなぞるそれか。ゆっくり一つずつ丁寧に、何一つ逃さないように。タイトルを音もなく読み上げながら、上の段から下の段へと移る。片腕で抱えたままの本はやがて、しゃがみこんだわたしの胸の下でつぶされた。 やがて本の列から抜かれた一冊に、もう一度、男が笑う気配がした。「それも、僕が前に出ていた舞台の、原作だ」「うん」「あの舞台、気に入ってくれたの?」「……うん」「嘘だね」 なめらかに耳朶を打った声に顔を上げても、そこにあるのはいつもと変わらぬ穏やかな表情だった。きっとわたしは滑稽な顔をしていただろうに、その人はあざ笑うことも嫌悪することもなかった。ただ、わたしと同じようにしゃがみこんで、その美しい顔をそっと近付け囁いた。「その本の舞台だって、君の興味を引いた訳じゃないんだろう」 無言を貫くわたしの心など、きっとこの人には分からないだろう。いつだって穏やかな顔を崩さない男が唯一泣き叫び、怒り、喜びに笑う瞬間を、薄闇の中から見つめることしかできない空しさなど。眩い光の中で誰かと抱き合う瞬間に強く唇を噛みしめる悲しみなど。こんなにも近いのに、どちらかがバランスを崩した瞬間に触れあってしまいそうな距離なのに、指先さえ動かすことのできない苦しみなど。 わたし自身のこころに雁字搦めになってしまった体では、どんな言葉も無意味だ。だからわたしは本を抱きしめ続ける。本当に抱えたいものの代わりに、わたしはこの両腕で、忌まわしいラブストーリーを絞め殺すのだ。「うそつき」 ほとんど声にならなかった囁きにどんなに男の心が籠もっていたとしても、わたしのこの心は救えない。 PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword