忍者ブログ

bernadette

Home > ブログ > 奇談

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

生落ファフロツキーズ2

 落ちてきた足を目の前に、情けないことに僕は突っ立ったままだった。必要なことをやったのはすべて黒崎だ。あらかじめ用意していたカメラで足を撮る。まずは僕らが立っている位置から。少し近付いて。角度を変えて。最終的に、目視で足の爪の色と長さの確認が出来るくらいの距離で。
 それが終わると、黒崎はあっさりとした様子で、帰ろう、と言った。僕は錆びた機械のような動きで頷いて、来た道をそのまま戻った。相変わらず鳥肌が立つほどの寒気に襲われた、色のない景色は、帰る時にはあっという間に過ぎていった。あんなに汗をかいた坂をやや早足気味に降りれば、そこには古びたバス停がぽつんと佇む、普通の町外れの景色に戻る。
 そんなに本数のないバスを待つのは効率的ではないし、無駄なお金を払えるほど、高校生の財布事情は明るくない。僕と黒崎は、バス停の後ろの草むらに置いていた自転車に乗って、街へと向かう。じりじり焼き付ける太陽に、ようやく夏の景色を思い出して安堵を覚えた。自転車を漕げば漕ぐほど、音が、色が、においが、気配が戻ってくる。僕のよく知る普通、あるいは日常、そういうものが、あの廃墟の記憶をすべて覆い隠してくれるような気がした。
 自転車で向かうのは住宅街だ。一軒家やアパート、マンションが密集する地域は、真夏の昼となれば人通りはあまりない。あっさりとたどり着いたのはいかにも高そうな一軒家だ。事実、この一軒家の住人は相当なお金持ちであることを、僕は知っている。
 閉ざされた大きな門に備え付けられたインターホンを鳴らす。一回ではなく、続けて二回。三秒間を空けて、もう一回。それが合図だ。インターホンに答えることなく、門の鍵が開く。
 門をくぐれば庭がある。よく手入れされた、上品な庭の奥には、やはりきれいに掃除された玄関が待ち受けていた。さっきまで見ていた廃墟とは大違いの清潔さは、どう言うわけか逆に息苦しい。来るものを拒むという意味では、あの廃墟と同じだからなのかもしれない。

「おーい、来たぞー」

 気後れしている僕とは正反対に、黒崎は友人の家に上がり込むよりも気安く声をかけ、あっさりと玄関を開けてしまった。あわててその後ろに続く。
 
PR

生落ファフロツキーズ

もしも今、誰かに、一週間前に戻りたいかと言われたら、僕は悩む間もなく頷くだろう。そして声を大にして叫ぶだろう。一週間前に戻してくれ。そうしたら僕は、僕自身を殴ってでも止めるから。とんでもないものに手を出そうとしている大馬鹿野郎を、気絶するまで殴ってでも止めさせるから。
 そうはいっても、僕にそんなことを言ってくるやつはいないし、いたところで誰も一週間前まで時間を巻き戻してはくれないだろう。大きくため息をつく。幸い、僕の数歩前を歩く白い背中は変わらぬスピードで坂道を先行する。こちらを振り向きもしない、細い背中と燃えるような赤毛は何も語ってくれない。それもそうだ。僕らは別に、親しく話し合うような間柄でもない。ましてや、一週間前に戻りたいかだなんて、軽口にもならない問いかけをしてくれるような間柄など。
 僕と、僕の前を行くその少年の間柄を言葉にするならば、同僚、だろうか。あるいは、共犯者だろうか。同じ学校の同じ学年の、時々廊下ですれ違う他人と言うには少し、後ろめたい。僕らの足元には秘密が転がっている。

「ゼロ」

 不意に少年の掠れた声が聞こえて、一拍遅れて僕は、ああ、と答えた。ゼロ。この同僚であり共犯者であり同じ学校の同じ学年の他人は、僕をそう呼ぶ。

「着いたぞ」

 汗でじっとり濡れた背中が振り向いて、真っ黒な目が僕を射抜く。鮮烈な赤毛も汗で濡れているのか、真夏の日差しを浴びて艶やかに揺れた。
 振り向いた彼の背後には、古びたコンクリートの建物が立ちはだかって僕らを睨み付けていた。

「……着いちゃったか」

 ぽつりと呟けば、彼はなんとも言えない表情で、左手首に巻いた腕時計へ視線を落とした。僕も一緒になって、盤面の白い腕時計を覗き込む。午前11時41分。目的の時間まであと19分。

「あのさあ、黒崎」

 二人並んで、来る者をひたすらに拒む様相を呈した建物に睨み付けられながら、僕は空白を埋めるように隣の彼に声をかけた。返事はない。
 誰も来なくなって久しい町はずれの山の上、そこに物言わず腰を下ろしたコンクリートの建物は、真夏の彩度の高い緑に囲まれながらもそこだけが異様にモノクロだった。壁を這う蔦の緑も、手入れされない庭で咲き続けるひまわりの黄色も、何もかもすべてが色あせて見えた。異質だ。異様だ。そうとしか表現できないこの敷地内に、僕らは入らなければならない。この建物に囲まれた中庭へ、足を踏み入れるのだ。
 ふらりと歩き始めた同僚、黒崎の後ろをよたよたと追いながら、僕は自分の顔から血の気が失せていくのを感じていた。

「今日もやっぱり、落ちてくるのかな」

 ああ、吐きそうだ。気持ち悪い。怖い。そうだ、怖い。こんなところに来ちゃいけない。分かっているのに行かなきゃいけない。一週間前に戻りたい。こんなところで、あんなものを見なきゃいけないと分かっていたなら、僕は絶対頷かなかったのに。
 でも、後悔してももう遅い。

「落ちてくるんじゃないか、今日も」

 言葉少なに答えた黒崎の声はやはり掠れていた。この暑さで喉が渇いたのか、それとも緊張か。だがその暑さも、敷地内に足を踏み入れれば踏み入れるほど不自然なまでに消えていく。あれだけ体を濡らしていた汗が引いていくのが分かる。寒気すら感じるほどで、僕は自分の体を抱くように二の腕を掴んだ。手のひらはまだ、熱い。
 建物の中には入らない。そもそも入れない。町はずれにある廃墟といえば大体は噂に背びれや尾びれがついて、最終的には肝試しに最適なスポットとなり果てると思うのだが、この建物についてはそれが当てはまらない。つまり、玄関も一階の窓ガラスもどこも割れていない。遠目から見ても、玄関にはご丁寧にチェーンと南京錠がかけられているようだった。僕も黒崎も、玄関を開けるための鍵までは預かっていない。
 中庭に行くには建物をぐるりと回ればいい。この建物は、大雑把に言えばコの字型をしているから、中庭に行くルートは単純だ。強いて言えば、今まで誰も手入れをしていなかったせいで雑草が生い茂り、ひどく歩きにくい。身の丈ほどもある雑草を腕で払っていると、ちくりと痛みが走った。どうやら鋭い葉で切ったようだった。思わず舌打ちをしそうになるのを堪えて、前を行く背中を追うことに集中する。
 黙々と歩を進める黒崎は、この寒気や恐怖を感じていないのだろうか。一週間前、初めてここに来た時から、彼は大きな動揺を見せていなかったと思う。真っ正直に恐怖を訴えた僕を笑うでもなく、じゃあ俺が前を歩く、と言った彼の表情は窺えない。それが頼もしくもあり、同時に不気味だった。僕が追う少年は本当に、坂道を一緒に歩いてきた少年なのかという疑念がむくむくと起き上がってくるのだ。それを振り払うように、彼の燃えるような赤毛を見ては、気付かれないように深呼吸をする。
 中庭にはあっという間に到着した。二人そろって腕時計を見る。午前11時58分。ちょうど良い、といったところか。
 残りの二分は、まるで永遠のように緩やかに進んでいった。高鳴る心臓は一生分、その鼓動を刻んだかもしれないと思ってしまうくらい、長い、長い二分だった。
 時計の短針と長針が重なり合う。その瞬間を、僕らは見る。

「――あ」

 声を漏らしたのははたしてどちらだったのか。僕らはそろって、建物の屋上から落ちてきたものが、重い音を立てて地面に衝突する瞬間を見ていた。
 中身の詰まった重い紙袋を落としたような鈍い音がする。潰れるような水音はしなかった。だからとって、落ちてきたものが、ただの重い紙袋であるはずもなかった。
 僕らは知っているからだ。この夏の間、数日ごとに、建物の屋上から落ちてくるものの正体を。
 体中が震えていたけれど、それでも僕は近づかなければならなかった。くらくらする。世界が回っている。足取りは重い。そして鈍い。規則正しい足音は黒崎のものだ。盗み見た横顔は思ったよりも血の気が失せていたけれど、きっと僕よりはよほどましだ。
 距離、おおよそ10メートル。それだけ離れていても、僕と黒崎には、地面に衝突したなにかが見えていた。
 生い茂る草はその周囲だけまるで、上から力をかけて潰されたかのように倒れている。スポットライトが当たった舞台とはこのようなものなのだろうか。もしくは、美術館の特別展示のメインか。それにしたって趣味の悪い舞台だし、特別展示のメインにするにはあまりに生々しい。
 倒れ伏した雑草の中心に落ちているのは、人の足だ。成人の、男か女かは分からない。だが、足だった。付け根からつま先まで、何一つ傷のない、白く生々しい、人の右足。
 僕らの足元に転がっている秘密は物も言わず、現実感のない白さでそこにある。


※10年くらいの時を経て、ゼロと黒崎の出会いを考えてみた。

7月29日午前11時28分

 7月29日の、午前11時28分。田舎によくある無人駅の、上り線のホーム。いつの頃からかは知らないが、必ずその日、その時間に、立ち尽くす男がいるという。
 白いシャツ、黒いスラックス、黒い革靴。手には花束を持ち、時間を気にした風に、こじゃれた腕時計を何度となく見る。整えられた黒髪に、まだ若い顔立ちの、男がそこに立っている。
 私の視線に気付いた風に、俯き加減だった男がふと顔を上げたかと思うと、その黒い目でこちらを見た。この暑い中汗の一つもかかぬ、真白い顔だった。

「やあ、今年も会ったな。相変わらずの顔だ」

 にっこり笑った男はまるで、昨日ぶりに会った友人に話しかけるような気軽さで私に声を掛ける。私は無言のまま小さく会釈し、男から少し距離をあけて同じように立ち尽くす。今年もまた会った。一年ぶりに顔を合わせた男は去年とまったく変わらぬ様子で、次にくるであろう電車を今か今かと待っていた。
 電車はきっかり10分後、11時38分にくる。この男は律儀なようで、必ず10分前にこのホームに来る。赤い、気障ったれたバラの花束を持った男は、不安と緊張と期待の入り交じった顔で、電車を待つ。

「しかし君も物好きだなあ。去年も、一昨年も、その前の年もそうだった。君もおれと同じように、誰かを待っているのかい」

 ええ、まあ、と濁しておく。毎年のことだ。7月29日の、午前11時28分。その瞬間を待って、私はこの無人駅の上り線のホームに足を踏み入れる。男の黒い目は私をじっと見つめていた。それを感じながら、私は黙って線路を睨みつける。祖母譲りだという切れ長の目は、鋭さを増していることだろう。それもまた、毎年のことだ。すべて、すべて、毎年のことだ。
 男が誰かを待っているというのならば、私もまた、待っているのだろう。ただしそれは人ではない。何かの事象、現象、あるいは遠い昔の約束が、姿形を持って現れるのを待っている。それを男に話したところで、特に何の意味もない。理解されようとも思わない。説明する気はさらさらなく、それ故に私は黙り込む。男の発した言葉にはそれよりも少ない言葉で返し、時には沈黙でもって答える。何年も続いた言葉の投げかけと沈黙は、男と私の間に、どんな親愛も関係性も生むことはなかった。誰かを待つ男と、何かを待つ私。二つの存在が7月29日、午前11時28分に、とある田舎の無人駅、上り線のホームで出会う、ただそれだけの事実が並んでいるという光景がすべてだった。
 男が黙れば、必然、そこには静寂ばかりが座り込む。遠くで蝉が鳴く声も、風が緑の葉を揺らす柔らかな音色も、昼食を作る生活の吐息も、聞こえながらも静寂に呑み込まれる。
 そうしている間に各駅停車の上り電車はやってくる。線路の向こうにゆらゆら揺れながら走ってくる電車に、男は俯かせていた顔を上げ、そこに期待と不安を滲ませる。かさかさと、透明なセロハンで包まれた花束が音を立てた。赤いバラの花びらが一枚、ひらりとホームへと落ちたのが見えた。
 電車は私や男の思いなど知る由もなく、いつものルーチンワークをこなす。風を呼びながら走り抜け、ブレーキをかけ、決まった場所で停車する。田舎の電車のドアは自動では開かない。内側か外側のボタンを押して、降りる人、乗る人が、自分から開けるものだ。男はじっと、2両しかない電車を見つめていた。誰かが降りてくるのを待つかのように。誰かが、内側のボタンを押して、電車からホームへ足をそっと降ろすのを見逃さんと言わんばかりに。
 だが、電車のドアはどれも開くことはなく、何事もなく轟音を立てながら走り去っていった。夏の熱い空気を巻き上げ電車はあっという間に小さくなっていく。見えなくなるまで目で追いかけていると、少し離れた先に立っていた男が、ふ、と軽いため息をついたのが分かった。

「……ああ、そうだよなあ」
「……」
「そうだ、それで良いんだ。ああ」

 花束を持った手をだらりと垂れ、男は空を仰ぐ。ホームを覆う屋根の向こう側は、目が眩むほどの晴天だった。

「良かった、今年も君は、来なかったんだな、ミツ」

 喉を反らして空を見上げる男の横顔に、安堵とも失望ともとれる笑みが浮かぶ。満足げな声色は、予定調和を見守る者のそれだった。11時38分着の電車が無事過ぎ去った。それはつまり、男の目的の一つの達成なのだ。
 間抜けなほどに上を向いていた男が、ぐるりと勢いよくこちらへ顔を向けた。黒い目にはぎらぎらとした光が宿り、この暑さに一筋の汗もかかない白い頬は、誰かに語りたくて語りたくて仕方ないという思いを男の周りに散らしている。沈黙を貫く私に、男はさながら機関銃のような勢いで言葉を連ねた。

「今年もミツは来なかった。おれの恋人、いや、愛人、いや、おれの思い人。ミツ。ミツは来なかったんだ」
「……」
「ああ、去年も言ったな君に。君に似た、涼しげな目元のひとなんだ、ミツは。いつもぬばたまの黒髪をひとつにひっつめて、古くさい色の着物を着た、料理の上手い女なんだ」
「……」
「君の目は本当によく似ている。おれがいくら愛を告げても、体に触れても、ミツはその目で俺を見るだけなんだ。一度としてあいつからおれに触ってはくれなかった」
「……」
「もの静かな女でな、自分の縁談が持ち込まれたときだってその鉄面皮を少しも動かさなかった。おれは何度も言ったのに。それは幸せになれないって。そんな結婚はミツの幸せにならないって言ったのに、あいつは泣きも笑いもしなかったんだ。知っていますって、それだけ言ってさ」
「……」
「だから、一緒に、誰も知らない土地に逃げて幸せに暮らそうと一端だ。7月の29日の、11時28分の上り線、そこで待っているから来てくれと言ったんだ。そうしたら一緒に乗ってどこまでも逃げようと。だが、来なかった」
「……」
「そうだよな、ミツ、お前は来ないんだ。どんなにお前がおれのことを愛していても、こんな軟派な男のことを愛していても、お前はおれと一緒には来ないって。おれがどれだけお前のことを好きだって分かっていても、お前は絶対に、おれの思いを受け取ってはくれないって」
「……」
「そういう女なんだ。あいつは。ああ、ああ、良かった、今年もおれの元へは来なかった。そうだ、おまえはそうじゃなきゃ。ミツ。ミツ。おれの思い人。美しい女。おれへの愛を抱えながら、一度もおれに靡かなかった女。おれの元に来ない、それこそが、おまえの愛情なんだ」

 もはや男は私には言葉を語っていない。男は、男自身に語り聞かせているのだ。端から見れば、己を納得させようとしているような姿だろう。狂人じみた語り口に、ぎらぎらと凶暴な光をちらつかせた目が、男が正気の沙汰ではないと告げている。私はただ、少し離れたところに立ち尽くし、男を見ていた。
 男は人を待っているという。それは確かに真実だろう。だが、回答で言えば半分しかあっていない。男は、誰かを待ちながらも、その誰かが来ないことを確かめるために待っている。分かり切った答えが分かり切った結果になることを知るために、何度も何度も何度も何度も、同じ日の同じ時間に同じ場所にやってくる。男の予想は的中し、それこそが正しい世の摂理だと満足げに頷くかのように、男は待ち人が来ないという事実を確かめ続ける。
 男が、抱えていた花束を地面に振りかざし、力を込めて叩きつける。セロハンが豪快な悲鳴を上げ、瑞々しい花がつぶれる生々しい音がした。男が花束を、よく磨かれた革靴の底で踏みつけたのだ。バラは踏まれれば踏まれるほど強く香る。踏みにじりながら男は何事かを唱えていた。その一つ一つを耳に入れるだけの興味はなく、私は淡々と、男が奇行に走るのを眺めていた。

「……あんた、いつになったら成仏するんです?」

 これも、毎年のことだ。私の不意の一言に、男は電池が切れたかのように花束を踏みつけるのも、ぶつぶつ何事かを呟くのも止めた。狂気を浮かばせた表情から一点、その顔には穏やかさが広がっていた。緩やかに死にゆく人の、諦めの混ざった、優しい笑みだった。

「いつまででも。ミツが来ないことが分かる、そのときまで」

 男は知らない。男が愛した女はやがて子をもうけ、孫の手を引いてこの駅まで、かつて愛した男を弔いに来ていたことを。
 男は知らない。男が愛した女はいつの日か、男が待ちかまえる駅の手前で、男が待ちかまえる電車に轢かれて死んだことを。
 それは男への贖罪だったのかもしれないし、彼女なりの矜持の示し方だったのかもしれない。たとえどれだけ愛した男だろうと、お前のところには行かないと、お前の手を取りすべてを捨てて逃げるような惰弱な真似はしないという、決意の表れだったのかもしれない。いずれにせよ、男の待ち人は二度と、この駅には来ない。ましてや、電車に乗って男を迎えに来ることなど。
 いつの間にか、男は消えていた。そこには落ちたバラの花束も、散った花びらのひとひらも、残されてはいなかった。
 愚かな男だと、私は毎年のように思う。なんて愚かなのだろうと、笑いすら出てこない。そんなにも愛しているならば、迎えに行ってやれば良かったのに。無理矢理にでも連れ去って、そうしてどこまででも、逃げていけば良かったのに。結局最後まで待つことしかできなかった男は、ただ、それまでの存在だったのだ。だからこそこうして何十年も同じことを繰り返している。愛した女がいつまで経っても己の元へやってこないと言う事実に、わずかながらの愛情を見いだしては縋る。男の中の、ミツという女の偶像に縋り続ける。どれだけ愛を告げてもそれに答えず、己を愛していながらも一度として自分から男に触れることの無かった、目元の涼やかな黒髪の乙女という偶像に。
 男はもはや、ミツと呼ぶ女の姿も思い出せていないだろう。私はただ、祖母譲りだと言う切れ長の目をこする。夏の幻はあっという間に消え去り、向こうのホームでは次の電車が来るというアナウンスが響く。これで終わりだ。私の今年の役割は、これで終わる。

 そうして私は花束を握りしめたまま上り線のホームを出る。下り線の電車の到着は近い。

プライベート・ミュージアムにて4

<黒崎>
・17~○歳。基本的に高校生のイメージ。
・館長へはわざと砕けた敬語を使う。
・「俺」「あんた」「お前」「君」
・髪の毛が生まれつき赤い。目は黒系。身長はそれなりにある。数学が苦手。得意科目は英語と国語。
・10~16歳の間に、一年ほどイギリスにいた。英語が得意なのはそれが原因。
・特定の話題に対して「おかしい」人間になる。
・友人に対して気遣いは出来る。だがそれが本当に気遣いかというと微妙。彼の言う友人は、ただの「道具」あるいは「同類」かもしれない。
・わりと大食い。金魚すくいが得意。
・別の黒崎くんと違って人脈が広いわけではない。怪奇系の人脈は広い。
・だからといって見えているわけではない。誰にでも見えるくらい強い怪異は見える程度。強いて言うなら、怪異の側から嫌われる体質ではある。
・勘が良い。

<館長>
・朽木美術館(プライベート・ミュージアム)の館長。
・金持ち。とりあえず金持ち。使っても使ってもなくならない財の持ち主ではないかと黒崎に思われているし、本人はそれを否定しない。
・人と会うときに名乗る名前は毎回違う。話を合わせるために同じ名前を使うことはあるが、事件一件ごとに名前が違うイメージ。たいていの人間はそれに気付かない。勘が良い人は気付く。朽木とは絶対に名乗らない。
・「私」「お前」
・40代前後。おそらく欧米系の血が混ざっている。背が高い。彫りが深め。青い目。良い男。大体いつもスーツ。
・ありあまる財を使って変なものを集めるのが趣味。
・落ち着いた性格と見せかけて、わりとお茶目な反応をしたりする。
・黒崎の事情は大体知っている。
・物に対してある程度の執着を持っている。展示物の入れ替えは館長と黒崎が手分けして行う。
・やたらとグルメ。下手なお菓子とか食べない。コーヒーや紅茶を淹れるのは得意。そしてそれを人に振る舞うのも得意。
・基本的に黒崎のことは使いっぱしり‌みたいに扱っている。
・怪異を外側から観察する人。


<お嬢さん>
・館長を「おじさま」と呼び慕う少女。黒崎とは違う高校の子。どこかのお嬢様学校。
・ツインテールが似合う小柄な子。フランス人形みたいだ、という印象。館長とはおそらく血が繋がっていて、こちらの方が欧米系の血が濃い。
・展示物についてはまったく興味がなく、ひたすらおじさまに会いにくるだけ。怪異にいろんな意味で嫌われるタイプ。歩く盛塩、みたいな。
・「あたし」「あなた」
・黒崎との仲は微妙。
・料理は苦手。手先は器用ではない。ただし化粧や着飾ることについては得意。
・世の中そういう人間がいるのね、で大体終わる。
・この美術館唯一の清涼剤的役割。館長もお嬢さんの前では形無し。





プライベート・ミュージアムにて3




 照明を最低限にまで落としたプライベート・ミュージアムの展示室は静かだ。心地よい暗さは人を眠りへと誘う。いつもそうだ。普段、十分なほど睡眠をとっているはずの黒崎も、いつもこの空間に漂う睡魔に勝てない。勝てた試しがない。
 黒崎の雇い主であるプライベート・ミュージアムの館長が、それを咎めたことはない。彼は、アルバイトの黒崎に対して、展示物に関する注意以外はほとんど口出しをしない。入場料としてとっている金にすら、何も言わない。人を信用しているというより、展示物、それ以外の物に対して興味がないのだと勝手に思っている。そして、それは間違っていない。黒崎も慣れたもので、バイトとして雇われた当初はそれに申し訳なさを感じていたはずだが、気付けば堂々と居眠りをするのが習慣になっている。普段座っている入り口の受付カウンターには、夏には卓上扇風機、冬にはミニストーブとひざ掛けが用意され、いかにこの環境を快適なものに出来るかに尽力していることも拍車をかけている。
 展示室の扉が開く。その音で目が覚めた。展示室の扉を挟んだ向こう側の明るさが逆行となって、いつも、入ってくる誰かはシルエットしか分からない。それで良いのだと館長は言う。こんな美術館に入ってくるような人間に、ろくな人間がいる訳がない、とは彼の言だ。ならばこの美術館を営業している彼もまた、ろくな人間ではないのだろう。もしかすれば、彼にアルバイトに誘われた、黒崎も。
 それでも、このプライベート・ミュージアムには誰かがやってくる。老若男女の区別なく、誰かが、ひと月ごとに変わる展示物に惹かれるように、あるいは、呼ばれるように。
 そうして今日も、黒崎はカウンターに腰かけ、客を待つ。