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bernadette

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氷漬けの朝

 悲しみは人に覆いかぶさってくるものだと、誰かが歌っていたのを思い出した。
 薄い毛布に包まれた体をさらに小さく丸め、目覚めた私を待っていたのは朝の冷たい空気だった。瞬きのたびに意識が現実へと戻ってくる。夢の残滓を引きずりながら、私は自分が、自分のベッドにいるのだということを思い出す。
 ひやりとしたフローリングに足をつけ、つま先だけで歩いてそっと部屋を出た。静まりかえった家の中では呼吸する音すら嘘のように響くものだから、私はこれが夢の続きではないかとかすかなおそれすら抱いた。足が冷たい。指先が冷たい。全身から、熱という熱が消えてしまったのではないかと思うほど、すべてが冷たい。
 リビングにはやはり人はいなかった。同居人は仕事か、何かか、テーブルに置きっぱなしのマグカップだけがいたことを証明している。半分だけ閉じられたカーテンの向こう側からは真昼の日差しが降り注ぐ。だというのにリビングの空気は冷え切っていて、いっそう私を悲しくさせる。
 そうだ、私は悲しいのだ、と唐突に気付いた。起きる直前まで見ていた夢をひきずる私はいまだ、夢の中の私のままでいる。死人のように冷たい体で、氷漬けの部屋の中で一人、目覚めた私のままでいる。
 冷たい。
 冷たい。
 冷たい。
 悲しい。
 なぜこうも悲しいというのか。ただの夢だというのに。夢は終わったというのに。冷えた体を抱きかかえうずくまる。カーペットの織り目の正しさが目に沁みて痛む。凍えたつま先は青白く、息絶えたひとの色をしている。
 悲しい。
 悲しい。
 悲しい。
 するり。
 冷たい足にすり寄る気配が、私を現実に引き戻す。にゃあ。猫の声だと認識するまで数秒かかった。次いで、私の足へ堅いものがぶつかる感触がした。カーペットの上を悠々と歩く黒い毛並みに金色の目をした猫は、にゃあ、ともう一度、私の目を見て鳴いた。
 ぎこちなく両手を差し出せば、手のひらに頭をすり付けてくる。朝のあいさつだ。私によく慣れた猫は、出された手に頭をすり付けるのだ。黒いつややかな毛並みが一瞬でぼやけ、何も見えなくなる。
 抱き上げた猫は何もいわず、私の肩にあごをのせ、やがてすぐに喉を鳴らし始めた。ひなたぼっこをしていたのか、撫でた背中は熱いくらいの温度を持っていた。指を滑らせるたび、私の体に体温が戻ってくる。凍った体が溶けていく。ここは冷凍された人々のための墓場ではなく私の家のリビングで、私は冷凍された死体ではなく生きた人間で、私はひとりではなく、猫がいる。それだけだ。それだけの事実と現実が今、私の心を救っている。
 覆い被さっている悲しみをはぎ取るように、猫が私の肩に爪を立て、大きく口を開く。それはただのあくびだったが、確かに、私の夢の残滓をほろほろと崩していった。
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春の話

 およそ二ヶ月ぶりの故郷の空気はまだ冷たく、雪の名残のにおいがした。
 十時間座り続けた腰の痛みと足のむくみによろめきそうになりながら、なんとかバスのステップを降り、乗務員に差し出された赤いスーツケースを受け取った。ちらりと覗いた荷室には、色とりどりのスーツケースが積み込まれ、最終目的地へ着くのを待っている。
 朝、七時手前。どうやらこのバス停で降りるのは私だけだったらしい。中年の乗務員と頭を下げあいながら、バスに背を向けおそるおそる歩道を歩く。溝の浅いブーツでは凍った地面を歩くには心許ない。吐く息の白さと、そこかしこに残る灰色の雪の塊に、私は自分の生まれ育った町を歩いているのだという漠然とした実感を抱く。くすんだ青白い駅舎の向こうには似たような色合いの空が広がるばかりで、昨日までいた東京の青空がまるで嘘のようだ。引きずったスーツケースの車輪の音と、私の慎重な足音、そして駐車スペースに停まる車のエンジン音に、夜行バスが走り出す轟音が混ざって遠ざかっていった。
 迎えの車は、駐車スペースの真ん中ほどに停まっていた。丸いフォルムの外観は遠目からも分かりやすく、メタリックブルーの塗装は寝起きの目にはなおいっそう鮮やかだ。運転席に座っている人影が確かに姉であることをみとめて、私は歩く足を早めた。
「おはよう。おかえり」
 助手席の窓を開けた姉は、二ヶ月前とさほど変わったようには見えなかった。かけられた言葉もいつも通りで、私は一瞬、返事に詰まる。
 ぽつり、と目の前に落ちてきたのは雨粒だった。ひえびえとした空気を切り裂くような雨粒に、春の穏やかさは欠片もない。開けられた窓の内側から、暖かな空気がそっと流れ出して私の頬を撫でていく。
「……ただいま、ねえちゃん」
 微かなぬくもりに動かされるように、私はようやく言葉を返し、不器用に笑った。

舞台の上

種をまくのに適したある日、近代的な図書館で面白くなかった芝居に興味があるふりをした話をしてください
さみしいなにか

 丸い形をした図書館は、有名な建築家がデザインした斬新なデザインだそうで、そう言われれば斬新なんだろうなあ、とわたしは思う。円の中心に集うカウンターと閲覧席は、光を取り込むようにとられた窓のおかげでどこまでも明るい。その一方で、中心から外れた外周は背の高い書架と相俟って薄暗い。そこにいるといつだって、光に寄ることのできないかなしい生き物になったような気分になった。
 あるいは、そう。規則正しく並べられた書架の隙間から、光に照らされた中心部を覗くたび、眩いステージに立つ誰かのことを思い出す。そして、そのステージを眺めているしかできない、客席に座る誰かのことも。
 しゃがみこんだわたしの目に映るのは文学書の背中ばかりだ。欲しいタイトルは確かに覚えているのに、目でなぞっていくうちにそれを通り越してしまう。さまよう指先をひとつひとつ、本の背に押しつけては唇でタイトルを紡ぐ。幾度もそれを繰り返してようやくたどり着いた本の頭に人差し指の先端をひっかけ、そっと本の列から抜いた。
 ゆっくり立ち上がる。昼間だというのに薄暗い図書館の隅で覚えた立ち眩みは、わたしの目の前を一瞬だけ真っ白にした。スポットライトが当たった瞬間のような熱と眩しさはあっという間に過ぎ去り、ゆっくりと元の薄闇が戻ってくる。微かな頭痛に額をおさえたわたしの横で、その人はなんにも言わずにひっそりと立っていた。

「探していたのは、それ?」
「うん。でも、もう一冊探さなきゃ」
「そう」
「先に閲覧席に戻ってて良いよ」
「ううん、待つよ。一緒にいる」

 わたしの拒絶はいつだって受け入れられない。その陰にあるほの暗い感情を知ってか知らずか、横に立っていた男は薄く笑ったようだった。

「それ、読みたかったのかい」
「うん」
「この前の舞台の原作だ」
「うん」
「あの舞台、気に入ってくれたの?」
「……うん」

 嘘だ。ひきつりそうになる喉を必死に誤魔化しながら、わたしはその人に視線を向けないまま小さく頷いた。嘘だ。真っ赤な嘘だ。腕に抱えた本を抱きしめるふりをして力を込める。本に命があったならきっと、苦しいと泣き叫んでいただろう強さで絞め殺す。まったく面白くもなければ興味もなかった舞台の原作は、わたしのまったく見当違いな八つ当たりを受けて小さく軋み声をあげた。
 ふらりと一歩を踏み出したわたしの後ろをついてくる気配がする。どうやらわたしを一人にはしてくれないらしい。明るいところと暗いところの境界線を越えないように、足下にばかり目を向けていたわたしは、探していた書架を通り過ぎたことに気付いて緩慢に振り返った。そこにはやはり、わたしと数歩分の距離を置いた男が穏やかな表情で立っていて、少しだけ呼吸を忘れてしまった。光の射さない空間でも、この男はなぜこんなにもきれいな顔でいられるのだろうかと、抱きしめ続けている本に問う。答えは返ってこない。

「どうしたの」
「なんでもない」
「そう」
「うん」

 男の横をすり抜けて、書架と書架の間に逃げ込んだわたしの耳に届くのは足音だ。振り返らない。きっと男はあの、怒りも悲しみも喜びもない、ただただ穏やかな顔をしているだろう。舞台の上で演技している時の方がよほど人間的だ。舞台を降りたとたん人間らしさが鳴りを潜めてしまうこの男のことを、わたしは怖れている。なにをいってもなにをされても穏やかな表情を崩さない美しい男を、わたしはきっと、誰よりも怖れている。
 男がわたしの横に立つ。衣擦れの音に意識を向けないよう、さっきと同じことを繰り返した。目と指先でタイトルを一つ一つなぞりあげていくのは、まるで、人の背骨をなぞる行為に似ていると、ふと思う。あるいはあばら骨をなぞるそれか。ゆっくり一つずつ丁寧に、何一つ逃さないように。タイトルを音もなく読み上げながら、上の段から下の段へと移る。片腕で抱えたままの本はやがて、しゃがみこんだわたしの胸の下でつぶされた。
 やがて本の列から抜かれた一冊に、もう一度、男が笑う気配がした。

「それも、僕が前に出ていた舞台の、原作だ」
「うん」
「あの舞台、気に入ってくれたの?」
「……うん」
「嘘だね」

 なめらかに耳朶を打った声に顔を上げても、そこにあるのはいつもと変わらぬ穏やかな表情だった。きっとわたしは滑稽な顔をしていただろうに、その人はあざ笑うことも嫌悪することもなかった。ただ、わたしと同じようにしゃがみこんで、その美しい顔をそっと近付け囁いた。

「その本の舞台だって、君の興味を引いた訳じゃないんだろう」

 無言を貫くわたしの心など、きっとこの人には分からないだろう。いつだって穏やかな顔を崩さない男が唯一泣き叫び、怒り、喜びに笑う瞬間を、薄闇の中から見つめることしかできない空しさなど。眩い光の中で誰かと抱き合う瞬間に強く唇を噛みしめる悲しみなど。こんなにも近いのに、どちらかがバランスを崩した瞬間に触れあってしまいそうな距離なのに、指先さえ動かすことのできない苦しみなど。
 わたし自身のこころに雁字搦めになってしまった体では、どんな言葉も無意味だ。だからわたしは本を抱きしめ続ける。本当に抱えたいものの代わりに、わたしはこの両腕で、忌まわしいラブストーリーを絞め殺すのだ。

「うそつき」

 ほとんど声にならなかった囁きにどんなに男の心が籠もっていたとしても、わたしのこの心は救えない。

生落ファフロツキーズ2

 落ちてきた足を目の前に、情けないことに僕は突っ立ったままだった。必要なことをやったのはすべて黒崎だ。あらかじめ用意していたカメラで足を撮る。まずは僕らが立っている位置から。少し近付いて。角度を変えて。最終的に、目視で足の爪の色と長さの確認が出来るくらいの距離で。
 それが終わると、黒崎はあっさりとした様子で、帰ろう、と言った。僕は錆びた機械のような動きで頷いて、来た道をそのまま戻った。相変わらず鳥肌が立つほどの寒気に襲われた、色のない景色は、帰る時にはあっという間に過ぎていった。あんなに汗をかいた坂をやや早足気味に降りれば、そこには古びたバス停がぽつんと佇む、普通の町外れの景色に戻る。
 そんなに本数のないバスを待つのは効率的ではないし、無駄なお金を払えるほど、高校生の財布事情は明るくない。僕と黒崎は、バス停の後ろの草むらに置いていた自転車に乗って、街へと向かう。じりじり焼き付ける太陽に、ようやく夏の景色を思い出して安堵を覚えた。自転車を漕げば漕ぐほど、音が、色が、においが、気配が戻ってくる。僕のよく知る普通、あるいは日常、そういうものが、あの廃墟の記憶をすべて覆い隠してくれるような気がした。
 自転車で向かうのは住宅街だ。一軒家やアパート、マンションが密集する地域は、真夏の昼となれば人通りはあまりない。あっさりとたどり着いたのはいかにも高そうな一軒家だ。事実、この一軒家の住人は相当なお金持ちであることを、僕は知っている。
 閉ざされた大きな門に備え付けられたインターホンを鳴らす。一回ではなく、続けて二回。三秒間を空けて、もう一回。それが合図だ。インターホンに答えることなく、門の鍵が開く。
 門をくぐれば庭がある。よく手入れされた、上品な庭の奥には、やはりきれいに掃除された玄関が待ち受けていた。さっきまで見ていた廃墟とは大違いの清潔さは、どう言うわけか逆に息苦しい。来るものを拒むという意味では、あの廃墟と同じだからなのかもしれない。

「おーい、来たぞー」

 気後れしている僕とは正反対に、黒崎は友人の家に上がり込むよりも気安く声をかけ、あっさりと玄関を開けてしまった。あわててその後ろに続く。
 

生落ファフロツキーズ

もしも今、誰かに、一週間前に戻りたいかと言われたら、僕は悩む間もなく頷くだろう。そして声を大にして叫ぶだろう。一週間前に戻してくれ。そうしたら僕は、僕自身を殴ってでも止めるから。とんでもないものに手を出そうとしている大馬鹿野郎を、気絶するまで殴ってでも止めさせるから。
 そうはいっても、僕にそんなことを言ってくるやつはいないし、いたところで誰も一週間前まで時間を巻き戻してはくれないだろう。大きくため息をつく。幸い、僕の数歩前を歩く白い背中は変わらぬスピードで坂道を先行する。こちらを振り向きもしない、細い背中と燃えるような赤毛は何も語ってくれない。それもそうだ。僕らは別に、親しく話し合うような間柄でもない。ましてや、一週間前に戻りたいかだなんて、軽口にもならない問いかけをしてくれるような間柄など。
 僕と、僕の前を行くその少年の間柄を言葉にするならば、同僚、だろうか。あるいは、共犯者だろうか。同じ学校の同じ学年の、時々廊下ですれ違う他人と言うには少し、後ろめたい。僕らの足元には秘密が転がっている。

「ゼロ」

 不意に少年の掠れた声が聞こえて、一拍遅れて僕は、ああ、と答えた。ゼロ。この同僚であり共犯者であり同じ学校の同じ学年の他人は、僕をそう呼ぶ。

「着いたぞ」

 汗でじっとり濡れた背中が振り向いて、真っ黒な目が僕を射抜く。鮮烈な赤毛も汗で濡れているのか、真夏の日差しを浴びて艶やかに揺れた。
 振り向いた彼の背後には、古びたコンクリートの建物が立ちはだかって僕らを睨み付けていた。

「……着いちゃったか」

 ぽつりと呟けば、彼はなんとも言えない表情で、左手首に巻いた腕時計へ視線を落とした。僕も一緒になって、盤面の白い腕時計を覗き込む。午前11時41分。目的の時間まであと19分。

「あのさあ、黒崎」

 二人並んで、来る者をひたすらに拒む様相を呈した建物に睨み付けられながら、僕は空白を埋めるように隣の彼に声をかけた。返事はない。
 誰も来なくなって久しい町はずれの山の上、そこに物言わず腰を下ろしたコンクリートの建物は、真夏の彩度の高い緑に囲まれながらもそこだけが異様にモノクロだった。壁を這う蔦の緑も、手入れされない庭で咲き続けるひまわりの黄色も、何もかもすべてが色あせて見えた。異質だ。異様だ。そうとしか表現できないこの敷地内に、僕らは入らなければならない。この建物に囲まれた中庭へ、足を踏み入れるのだ。
 ふらりと歩き始めた同僚、黒崎の後ろをよたよたと追いながら、僕は自分の顔から血の気が失せていくのを感じていた。

「今日もやっぱり、落ちてくるのかな」

 ああ、吐きそうだ。気持ち悪い。怖い。そうだ、怖い。こんなところに来ちゃいけない。分かっているのに行かなきゃいけない。一週間前に戻りたい。こんなところで、あんなものを見なきゃいけないと分かっていたなら、僕は絶対頷かなかったのに。
 でも、後悔してももう遅い。

「落ちてくるんじゃないか、今日も」

 言葉少なに答えた黒崎の声はやはり掠れていた。この暑さで喉が渇いたのか、それとも緊張か。だがその暑さも、敷地内に足を踏み入れれば踏み入れるほど不自然なまでに消えていく。あれだけ体を濡らしていた汗が引いていくのが分かる。寒気すら感じるほどで、僕は自分の体を抱くように二の腕を掴んだ。手のひらはまだ、熱い。
 建物の中には入らない。そもそも入れない。町はずれにある廃墟といえば大体は噂に背びれや尾びれがついて、最終的には肝試しに最適なスポットとなり果てると思うのだが、この建物についてはそれが当てはまらない。つまり、玄関も一階の窓ガラスもどこも割れていない。遠目から見ても、玄関にはご丁寧にチェーンと南京錠がかけられているようだった。僕も黒崎も、玄関を開けるための鍵までは預かっていない。
 中庭に行くには建物をぐるりと回ればいい。この建物は、大雑把に言えばコの字型をしているから、中庭に行くルートは単純だ。強いて言えば、今まで誰も手入れをしていなかったせいで雑草が生い茂り、ひどく歩きにくい。身の丈ほどもある雑草を腕で払っていると、ちくりと痛みが走った。どうやら鋭い葉で切ったようだった。思わず舌打ちをしそうになるのを堪えて、前を行く背中を追うことに集中する。
 黙々と歩を進める黒崎は、この寒気や恐怖を感じていないのだろうか。一週間前、初めてここに来た時から、彼は大きな動揺を見せていなかったと思う。真っ正直に恐怖を訴えた僕を笑うでもなく、じゃあ俺が前を歩く、と言った彼の表情は窺えない。それが頼もしくもあり、同時に不気味だった。僕が追う少年は本当に、坂道を一緒に歩いてきた少年なのかという疑念がむくむくと起き上がってくるのだ。それを振り払うように、彼の燃えるような赤毛を見ては、気付かれないように深呼吸をする。
 中庭にはあっという間に到着した。二人そろって腕時計を見る。午前11時58分。ちょうど良い、といったところか。
 残りの二分は、まるで永遠のように緩やかに進んでいった。高鳴る心臓は一生分、その鼓動を刻んだかもしれないと思ってしまうくらい、長い、長い二分だった。
 時計の短針と長針が重なり合う。その瞬間を、僕らは見る。

「――あ」

 声を漏らしたのははたしてどちらだったのか。僕らはそろって、建物の屋上から落ちてきたものが、重い音を立てて地面に衝突する瞬間を見ていた。
 中身の詰まった重い紙袋を落としたような鈍い音がする。潰れるような水音はしなかった。だからとって、落ちてきたものが、ただの重い紙袋であるはずもなかった。
 僕らは知っているからだ。この夏の間、数日ごとに、建物の屋上から落ちてくるものの正体を。
 体中が震えていたけれど、それでも僕は近づかなければならなかった。くらくらする。世界が回っている。足取りは重い。そして鈍い。規則正しい足音は黒崎のものだ。盗み見た横顔は思ったよりも血の気が失せていたけれど、きっと僕よりはよほどましだ。
 距離、おおよそ10メートル。それだけ離れていても、僕と黒崎には、地面に衝突したなにかが見えていた。
 生い茂る草はその周囲だけまるで、上から力をかけて潰されたかのように倒れている。スポットライトが当たった舞台とはこのようなものなのだろうか。もしくは、美術館の特別展示のメインか。それにしたって趣味の悪い舞台だし、特別展示のメインにするにはあまりに生々しい。
 倒れ伏した雑草の中心に落ちているのは、人の足だ。成人の、男か女かは分からない。だが、足だった。付け根からつま先まで、何一つ傷のない、白く生々しい、人の右足。
 僕らの足元に転がっている秘密は物も言わず、現実感のない白さでそこにある。


※10年くらいの時を経て、ゼロと黒崎の出会いを考えてみた。