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bernadette

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クーロンのような話



 数年ぶりの地上は埃を含んだ空気が舞い上がり、肺が軋むようだった。息を吸うたび、体の内側に黒い泥がへばりつくような不快感がこみ上げてくる。空はあんなにも青いというのに、遠く広がるビル群は灰色にくすみ、漂う大気は曇ったかのように濁っていた。この程度の空気汚染度ならば人体に大きな影響は出ないだろう、と、ナビが下手な慰めを耳元で囁く。多くの人間が地上で生きていられるのだから、たかだか汚れた空気を吸ったところで死にはしない、とも。
 まったくもってその通りだ、とクドは投げやりに答え、大きく息を吐いた。額に上げていた視覚補助ゴーグルをつけ直し、目の前にそびえ立つ壁に向かう。その向こう側にあるであろう、無計画に、無秩序に広がった建造物たちの墓場は、高い壁に阻まれ高層部分しか見えず、その全容は中に入らなければさっぱり分からない。壁は今まで経た年月を誇示するかのように古く、年老いた老兵のような冷淡さで街に訪れる異邦人を睨み付けている。来るもの拒まず、ただし去るものを許さない。城塞都市のごとく閉鎖され、覆い隠された城非ざる街は、己の姿を見たものを決して手放さない。
 これ以上なく面倒で、虚脱感ばかりが体を支配する、そんな気分だった。出来ることならば踵を返し、地下街の己の部屋に戻ってシャワーを浴びて寝たいところだが、目標設定されたクドのナビはそれを許さない。無慈悲なまでに追い立ててくる。

「オーケー、ベネット。行けばいいんだろ、行けば」

 自分に言い聞かせる意味も込めてあえて大きな声で応えると、相棒たるナビは満足げに、視覚補助ゴーグルに入場口までの最短ルートを表示させた。融通の利かない人工知能に舌打ちをしたい気分になりながら、それでもクドは黙って壁へと歩き始めた。出来るだけ空気を吸いたくないと浅い呼吸を無駄に繰り返し、ブーツの底を高く鳴らしながら、薄汚れた壁にぽっかり空いたゲートへと向かう。鷹揚に構えた街の入り口は、まるで地獄への門のようだった。





 街そのものに入るのは簡単だ。ゲートで入場したい旨を伝え、身分証明書を提出し、書類に必要事項を記入した後、宣誓書にサインを書き込めば終わる。今時紙媒体の書類と宣誓書など、と一笑に付したくなったが、この街は外側に比べて半世紀は文化が遅れている。外との関わりを断絶させているのだから、それも当然だろう。もとは計画や予測をまるっきり無視した建築群、それだけだったはずの場所は、高い壁で周囲を囲まれて以降、独自の文化を形成させてきた。誰かの悪意と謀略に満ちた街は混沌とした様相で、外部からの圧力と統制をまるっきり無視し、誰の手にも負えない箱になっている。そこに居心地の良さを求めた後ろ暗い事情を持つ者たちが集い、売春、薬物、暴力、異常嗜好と次々と箱の中に詰め込んだ結果が、この高い壁に囲まれた陸の孤島である。
 コピーされた宣誓書に目を通す必要はない。一時滞在者であることを示す青いリストバンドと一緒にカバンに詰め込んだクドを、門番は愛想笑いで見送った。

「では、良い滞在を」

 そうはならないだろうな、と吐き捨てたくなるのを飲み込んで、クドは壁の内側に入った。




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夏の日は曖昧

 こんなにも暑い夏の日は、あちらとこちらの境界線が曖昧になる。道路に立った陽炎のように景色が揺らめき、コントラストの激しい青空と極彩色の雲が混ざり、道行く人々の中にうっすら透けた誰かや、血塗れの誰かや、人の形をなしていない何かが歩いているのさえ見える。いつもそうだった。那岐の目は、生まれた時から、他の誰にも見えない世界さえも映していた。
 煙のようにまとわりつく、赤い糸が左の手首を引く。那岐が立ち止まれば促すように、道を間違えれば少し強く、その先で誰かが糸の端を引いている。
 目が眩む。
 すれ違った少女のセーラー服は那岐の通う学校の制服だったが、はたしてそれを着ているのが本当に人間なのか、それすら怪しい。一つに括られた黒髪が揺れ、汗でも香水でもない、不可思議だがどこか懐かしいような、甘い香りがした。振り返ってもすでにセーラー服の少女の姿はなく、やはりあれは幻であったのかとぼんやりと思う。
 目が眩む。
 一際強く手首を引かれ、足を踏み出した先では車が右から左から、絶え間なく走って消えていく。その合間に見える、横断歩道の向こう側で、糸を握った女が笑っている。こんなにも暑い日だというのに白いコートとロングブーツで、まるで女ばかりが冬に生きているかのようだ。はぜた頭からとめどなく溢れた血液がコートを徐々に赤く染め、どろりと溶けだした灰色の脳がこぼれてアスファルトに無惨に落ちる。それでも女は笑っている。動かした口が何かを言っている。声は聞こえない。何も聞こえない。こんなにも世界を明確に見えている那岐の耳が、上手く働いていない。
 手首に巻き付いた赤い糸は、もはや糸ではない。那岐の体をそこから蝕んでいく、赤い呪いだ。
 目が眩む。
 踏み出した足を、傾いだ体を、強い力が後ろへと引っ張った。青い空に白い入道雲が眩しいと、場違いに思った那岐の体を誰かが支えていた。

「那岐」

 目が眩む。頭痛がする。喉がからからだった。両肩に置かれた手には力がこもり、痛い、と思った。頭痛と、両肩と、痛む体が現実に引き戻す。頭上に輝く太陽が、今は夏だと告げている。
 こんなにも暑い夏の日は、あちらとこちらの境界線が曖昧になる。

「危ないよ、那岐くん」

 少し低いが艶のある声が左側から聞こえた。黒髪を一つに括ったセーラー服の誰かが那岐の左手を掴んでいる。大した力はこもっていない。ただ、あまりに冷たい手がまるで死人のようで、かすかに香る甘い香りは、いつかどこかで嗅いだ、この世ならざるどこかに漂っていた、死の香りによく似ていた。

「気をつけてね」

 そういったセーラー服の誰かはするりと那岐の左手首を撫で、赤い糸を引きちぎって向こう側へと歩いていく。その背を追いかけようとは思えなかった。ずっと那岐の両肩を掴み、体を支えていた少年は、それ以上に、追いかけることを許さないだろう。
 少しばかり目つきの鋭い、少女めいた顔に一筋、汗が伝っていた。透けるような薄さの生地で出来たブラウスにキュロットスカートを履いた少年が、那岐と目を合わせて大きくため息をつく。

「気をつけろよ。死ぬつもりか」
「……?」
「こんな暑い日に、変な格好した女についていくほどバカじゃないだろ、おまえ」

 横断歩道を渡りきったセーラー服の誰かがこちらを振り向いた。背の高いその人はにこりと笑い、手を小さく振る。もう片方の手には赤い糸が絡みついていたが、それ以上に、その足下に転がった肉塊らしき何かが、あまりに奇妙だった。
 那岐と少年を置いて、人々が横断歩道を渡っていく。止まっていた時間が動き出す。もう一度見た道路の向かい側に、セーラー服の誰かも、肉塊も、何もない。

「……世御坂」
「なに」
「僕は」
「夢だよ」

 断じるように強い口調で世御坂は言う。暑い夏、こちらとあちらの境界が溶けた日の、悪い夢だったのだと、少女めいた彼はつぶやいた。

花の都の春卯月

 花の都の春卯月は、誰も彼もが浮き足立つ。香る花びら、ささやき声、あふれる音楽、舞う足取り。水上列車で訪れる人々は、海上に咲く絢爛の都に、皆感嘆のため息をつくらしい。薄桃色に染まった『花の都』は、今この季節がもっとも美しい。
 白鳩屋の判が押された紙袋を抱え、向かう先は水上列車の終着駅だ。街の住人と外の人々、誰も彼もが混ざった人の渦。道行く婦人の肩掛けは薄く柔らかで、さえずる女学生の髪飾りには花。厚い外套を脱ぎ捨てた警備隊の笛が鳴る。軽やかで色鮮やかな、花の季節は花も人もみなそれぞれ盛りだ。
 陽気な音楽隊の群を避け、お祭り騒ぎの合間を縫う。着古した黒い詰襟は、まるで花の木の影のようだ。足音密かに人を避け、屋根を飛び、時々猫に挨拶しながら、見下ろした先では水上列車の昼の便が到着していた。
 青い水の向こうにかすかにけぶる、帝都から延々と続く線路は、今日は調子が良かったらしい。懐から取り出した時計は予定通りの時刻を指していた。

「……あ」

 駅から溢れ出る人々の中、髪も肌も服も何もかもばらばらな人の中、僕の目に何よりも映るのは、同じ黒い詰め襟を着たその人だった。
 屋根から一跳び、行き交う群れに流されるように足を運びながら、一年ぶりのその人に、どんな言葉をかけようかと思えば思うほど、心が躍るようだった。あなたが帝都に戻ってからしばらくは寂しかっただとか、夏葉月にちょっと大変なことがあっただとか、秋霜月は早々に雪が降っただとか、冬睦月に書いた手紙には続きがあるだとか、言葉になる前の様々な記憶が蘇ってくる。一つ一つ丁寧に語っていては、きっと七日後の帝都に帰る日までには語り尽くせない。あちらもきっと同じだ。まったく別の場所にいるからこそ、伝えたいことがある。
 鞄を抱えた詰め襟のその人は、まだ僕には気付いていない。目が眩むような騒ぎと彩りの中、花の木の影のような黒い背に手を伸ばす。音楽隊の笛が鳴る。旅芸人の一座が高らかに名乗りを上げる。割れる歓声、舞う花びらと紙吹雪、水しぶき。振り返った僕の片割れは、一年前と変わらぬ顔に驚きを浮かべた。
 笑う。かける言葉はさんざん考えても浮かばなかったのに、いざという時はするりと口からこぼれてくるのだ。

「やあ久しぶり。ようこそ、花の都へ!」

 抱えていたお菓子の包みを差し出せば、まん丸くした目がにっこり笑い、久しぶり、と言葉を返した。




花咲く都の春卯月(都守の桜と片割れ)

ご飯が食べられない那岐くんのお話

 学校近くの惣菜屋の、キッシュがとても美味だと言ったのは黒崎だ。学生や近くの会社で働く人々で溢れかえる昼間を過ぎ、おやつの時間に近い頃訪れると、出来立てのキッシュが食べられるという。
 何故そんなことを知っているのかと聞くと、彼のバイト先の雇い主が、この惣菜屋の主人と懇意にしているからだと言う。ちなみにキッシュは雇い主の好物であり、彼は時折、アルバイトの黒崎を買いに走らせるらしい。キッシュの味の良さは黒崎と、彼の雇い主二人分のお墨付きだ。

「そんなもんだから、まあ、大丈夫だよ。あの人、食べ物の好き嫌い多いくせに、この店のは何を食べても旨いって手放しに誉めてたから」

 紙袋から取り出したのは白い包みで、その一つを那岐に差し出しながら、黒崎は自分の分の包みを器用に開けた。とたん、クリームと卵、チーズと野菜の香ばしい香りが部屋に広がり、今更のように空腹を思い出す。程良く焼き目のついたキッシュは分厚く、一切れで十分腹が膨れそうだ。おそるおそる受け取った包みはまだ、ほのかに温かい。
 さっさとかぶりついた黒崎を後目に、両手で受け取った食べ物をじっと見つめた。那岐にしてみれば誰かは分からない誰かが作る、温かな食べ物だ。次いで差し出されたのは缶コーヒーだった。普段はブラックを飲む彼にしては珍しく、砂糖とミルクがたっぷり入ったものだった。こちらも温かく、惣菜屋から那岐の家に来るまでの間、自販機かどこかで買ってきた物だろうことは容易に知れた。
 那岐がキッシュに口を付けたのは、先に食べ始めた黒崎が食べ終え、食後の一服と言わんばかりに缶コーヒーを飲み始めた頃だった。

「な、旨いだろ」

 分厚いキッシュのほんの端を少し、それでもチーズの深みと野菜の素朴さが舌の上で優しく広がった。想像したよりもあっさりとした風味で、疑い深い那岐の味覚を滑り、胃を満たしていく。美味しい、と小さく応えると、黒崎はそうだろう、と満足げに笑った。

「昼の弁当も旨いんだよな。つっても競争率高いんだけど」
「……」
「あとあの人美味しいって言ってたのは、カスタード入ったアップルパイもだな。おすすめ。次行ったときにあったら買ってくるわ。甘いもの別に嫌いじゃないだろ?」
「……お願いします」
「コーヒーも飲めよ。甘いもの摂ると疲れとれるっていうしな」
「ありがとうございます……」
「あーほら泣くなよ。せっかく旨いもの食べてるときにさー」

 無造作に放られたのはハンカチだった。几帳面に畳まれたハンカチを借りつつ、知らない洗剤の香りに心底安堵した。鼻をすすると間髪入れずにポケットティッシュが飛んできたが、ベッドサイドにある箱ティッシュを使うことで、新品のそれを開けることはなかった。

「……おいしいです」

 もう一度口に出す。悪意も何もない、誰か大勢のために作られたような、安全で温かな食事は久しぶりだった。好意とその向こう側にある害意に傷ついていた味覚が喜んでいる。さらに一口、一口と口に運びながら缶コーヒーを開けると、黒崎は少しだけはにかんだ。

不幸の影踏む都守

 花の街に住む博士から帝都に住む先生へ、手紙が来た。ちょうど花の街も帝都も春卯月、薄紅色の花々が咲き誇る時期のことだった。
 それに合わせたのか薄紅色の封筒に、白い便箋で、少しだけ神経質そうな文字が並んでいた。封筒の中からは微かにお茶の甘い、枯れ草のような香りがする。博士はいつもはお茶屋を営んでいるから、その香りなのだろう。

「先生。せんせーい。お手紙です」
「はいはい。誰から?」
「博士からです」
「アイツからか」

 やだなあなどと言いながら、先生の表情は穏やかだ。いつものことだ。この人はのんびり屋さんで、滅多なことでは怒らないし慌てない。そのくせ遅刻はしないのだから不思議だ。
 柔らかな白髪に小綺麗な白衣を着て、先生は新しく買った本を抱えていた。何の本なのかは僕は知らないが、先生のことだ、また何か、おもしろいことをするつもりなのだろう。後片付けが楽だといいな、とだけ思う。

「なんて書いてたの?」
「えっとですね」

 暗に僕が読んで良いと言っているようなので、遠慮なく便箋を広げ、ざっと目を通す。几帳面だがどこか張りつめたような緊張感のある字が並んでいる。紛れもない博士の字だ。字にはその人の性格が表れると言うが、まさしくそれだ。
 書いている内容はすばらしく簡潔で、人嫌いの気がある割に分かりにくく親切な博士らしい、と少しだけほほえましい気分になった。

「えっとですね」
「うん」
「不幸に気をつけろ、だそうです」
「あらまあ」
「最近花の街で不幸が流行っていて、博士も二件くらい捕まえた? そうなんですけど。なんだか不幸が列車に乗って帝都まで来ちゃったんじゃないかって噂があるらしいです。旅人の皆さんがそう言ってるとか」
「あららー」

 なんとも気の抜ける反応をいただいたが、これが僕の先生の常である。少し目を見開いて驚いたような顔をしているが、緊張感はない。

「先生」
「なにかな?」
「不幸、てなんですか?」

 素朴な疑問を口にすると、ぱちぱちと大きく瞬きをした先生は沈黙した。本を抱えていない方の手で自分の白髪を撫でる。どう説明したものか迷っているようだ。眉尻がほんのり下がり、情けなさそうな表情である。

「不幸は……不幸、だね」
「まあ、そうでしょうけど」
「それとしか言いようがないんだなあ」

 僕が首を傾げると、先生も首を傾げた。それとしか言いようがないとはこれ如何に。
 とりあえず博士の言葉をまとめるならば、不幸、とは、流行するもので、捕まえられるもので、列車に乗って帝都まで流れ着くようなもの、らしい。病気のようなものなのだろうか、とも思ったが、いかんせん名前が『不幸』なものだからよく分からない。とにかく、良いものではないということだけは確かだ。
 それ以外確かではない、とも言うけれど。

「ワタシもねえ、何度か遭遇しているし、対処方法は分かるんだけど。でも、どんなもの、とは一概に言えないんだなあ」
「形はないのですか?」
「まちまちだよ。形があったり、なかったり。あってもそれぞれ違う形だから」
「参考までに、どんな形だったのか教えてもらえませんか」
「ううん。じゃあ、ワタシが一番最後に遭遇した不幸だったんだけど……」

 髪を撫でていた手が顎をさすり、穏やかな声が語り出す、その時、外から鐘の音がした。先生は口をつぐみ、二人そろって窓の外へ目を向ける。
 この辺りで鐘が鳴ると言うことは、時計台の鐘が鳴ったということだ。懐中時計を取り出し確認したが、昼の鐘にはまだ早い。それを口に出そうとしたところでもう一度、鐘が鳴る。僕と先生が住む部屋を抜け、遠く遠くへ響いていく。
 先生のため息が聞こえた。

「どうやら、来てしまったみたいだ」

 三度目の鐘が鳴る。