2015/06/04 Category : 雑多 Cと沼男 ――今、こうして、目の前の壁を「白」である、と知覚している「自分」は、本当に「自分」なのだろうか。 自分自身を定義するにはおそらく、第三者の目が必要なのだとCは思う。第三者、すなわち、Cの事情にかかわりのない、正しく人間である、まっさらな目を持った存在だ。そのような存在に知覚され、お前はCという男だとはっきりと定義されなければならない。Cは曖昧だ。なぜなら、そのような第三者がここにはいないからだ。Cの事情にかかわりのない、正しく人間である、まっさらな目を持った存在は、今、この狭い世界には存在しない。 白い壁から視線を外し、重々しい鍵のついた扉を開け、廊下を歩けばエントランスホールに着く。そこが本当にエントランスホールなのかをCは知らない。病院の待合室のように大量のイスと、区切るようなカウンターが設置されたそこに、外への出口はないからだ。代わりに存在するのは第三者足りえない、”沼男”のみである。「――よお、C」 気だるげな、投げやりな、だが親愛のこもった声がCを呼ぶ。C。アルファベット一文字が、この白い空間にいる以前のことを一切合切覚えていない男を意味する名だ。覚えやすくて良いだろう、と沼男は言った。Cが目覚めて初めて出会った、唯一まともに人間の形をしている存在は彼だけだったからか、沼男の言うことはすんなりと受け入れられた。 唯一まともに人間の形をしている沼男は、胴体もあるし頭もあるし、四肢もある。彼はそれなりの背格好のCとほとんど同じような体格だ。だが顔は包帯をぐるぐる巻かれているおかげでまったく顔が分からない。それさえなければよほど、彼もまともな人間に見えたことだろう。だがあいにく、しばらくの付き合いになるCにも彼はその素顔を見せたことはない。常に気だるげに、エントランスホールの座り心地が悪そうなソファーに座っている”沼男”、その名称は彼が自分から名乗ったものだ。それ以外に名乗る名はない、と彼は言った。※沼男、とは。哲学の話。死んでしまった男と原子レベルで同じ、記憶も同じ、そういう存在。化学反応を起こした沼から生まれた男。では、原子レベルで同じ存在となった沼男ははたして、死んでしまった男と同一人物か?沼男の話はもっと単純。たとえば。遠い未来。記憶の複製が、記憶の上書きが可能な世界。クローンに記憶を植え付ける。そうすれば、死んだ男と沼男の完成。それに気付いてしまった沼男は、自分が自分ではないと知ってしまったがゆえに、もうどこにも出られない。「自分」などどこにもいなかった。ただのコピーである存在は、顔を隠さなければ生きていけない。本物の「自分」から許してもらえなければ、彼はどこにも居場所がない。 PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword