2014/12/28 Category : NBM パーティーは終わらない 「運が悪いな」 ぬるくなったであろうシャンパンを口に含み、目の前の男は囁くようにそう言った。どこか甘い男の低い声は、さざめく人々の中にそっと溶けて消えていくようだ。真似るようにグラスに口をつけながら、まったくだ、と他人事のように俺も頷く。あえて無表情を顔に張り付けながら、さてどうしたものか、とひとり、思考に耽る。 子どもが不安そうに、俺の腰の辺りに手を回し、抱き付いている。だが実際は不安というよりも警戒しているのだろう。無害そうな少女だが、その実態は冷徹な暗殺者であることを、俺も、目の前の男もよく理解している。何かあればこの少女が、己の命を懸けてでも俺の身を守るであろうことはもはや口にするまでもない事実だが、しかし今はイレギュラーな状況だ。この少女は優秀な暗殺者であってボディガードではない。想定していた範囲での迎撃は可能だが、まったく想定していなかった事態には弱いのだ。己の命を懸けてでも俺の身を守る、それは確かだが、万が一この少女が命を落とせば、それ以上俺は護衛の手段をなくしてしまうということだ。さてどうしたものか、と、もう一度頭の中で同じ言葉を繰り返す。 それに比べて目の前の男はどうだ。飲み切ったグラスはいつの間にか手から消え、代わりにタバコの箱がその中にある。洒落たダークグレーのスーツから取り出したのは銀色のライターだ。だが俺にくっついている子どもを見て、男はライターをポケットに戻した。少しだけ、バツの悪そうな顔をしていた。少なくとも、俺よりよほど余裕のある表情と動作だ。いつも隣にいるはずのボディガードがいないが、それは彼にとって、取るに足りない問題なのだろう。 ちらりと視線を向けた先、パーティー会場の出入り口には警備員が配置されている。誰も入れるな、誰も出ていくな、ということらしい。「12階の一室に宿泊していた夫婦が何者かに殺害されたそうですよ」 世間話のように投げかけられた言葉に思わず振り向くと、グラスを両手に持った女が涼やかな表情をして立っていた。すらりとした体を光沢のあるグレーのワンピースで飾った、まだ若い女だ。透き通るような白い肌が、シャンデリアのきらめきを受けてより一層白く輝いている。人の目を惹く美人、という訳ではないが、控えめながらそれなりに整った顔立ちにしなやかな体つき、理知的な眼差しと、パーティーのお供には打ってつけだ。だがこの女もまた一癖ある人物であることを俺は知っている。 彼女は新しいワイングラスを男に差し出し、その横に並ぶ。心なしか、俺の服をつかむ少女の手に力がこもったような気がした。「すでに警察は来ているようですが、まだ、時間がかかるようです。場合によっては事情聴取されるかもしれませんね」「さっさと帰りたいところなんだがな」 おそらくこの会場の人々が思っているだろうことを堂々と口にした男は、無警戒と言っていいほどにあっさりとワインを飲み干した。またしても空になったワイングラスを弄びながら、男は目を合わせずに俺に問う。「さて、ランスロット。今回は、本当に、運が悪いな?」 ――さあ、どうだろうか? 男は言いたいのだ。俺と、この男、ある種の共犯者が揃った会場で何者かが殺された。それははたして偶然なのか? 12階で殺された老夫婦が一体何者なのか、それは現時点では分からない。だがもしかしたら俺やこの男と縁のある人物かもしれない。まったくの別人かもしれないが、だからといってそれが安心の材料になるとは限らない。ただの見せしめ、警告。そのために無害な一般人が殺された可能性もある。今、こうして、会場に足止めされながら、俺たちは命を狙われていることも考えられるのだ。 少女の温かな手が、俺の手に触れた。見下ろすと緑の瞳とぶつかる。照明の光を受けた目は宝石のように輝き、一瞬だけそれに意識を惹かれた。「マスター」 自分が守るのだと少女は言葉にせずともその目で語る。柔らかな髪を手で梳きながらぼんやりと、少女のドレスから伸びた青いリボンを見つめていた。会場に満ちる人々の声を聞きながら、思わず俺は口を開いていた。「……さっさと帰りたい」 女の腰に手を回しつつ、男はくつくつと笑った。疲れたような声を発した俺とは違い、やはり、彼はどこか余裕を漂わせている。恋人であり、ボディガードであり、腹心の部下である女は涼やかな表情のまま、手にしたままだったワイングラスに口をつけていた。 PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword