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bernadette

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真白と黒崎



 ソファーをまるまるひとつ占領した赤い髪の男は、静かに眠っている。
 買い物袋と教科書が詰まった鞄を、出来るだけ静かにテーブルに置いた。買い物袋の中身が擦れる音、鞄の金具が触れ合う音、そんな微かな音でさえ、眠る男の覚醒に繋がるのではないかと私はいつも危惧している。
 足音を忍びながらソファーの目の前に立ち、眠り続ける男を見下ろした。精悍な顔にはうっすら隈が浮かんでいる。よくよく見ればその赤い髪はわずかに湿り気を帯びていた。シャワーを浴びて、そのままソファーで眠ってしまった、というところか。それだけ疲れているということなのだろう。ソファーの背にかけたままの膝掛けを、彼の体に掛けようと手を伸ばし、躊躇する。やはり彼を起こしてしまいそうな気がしたのだ。
 けれど私の危惧などお構いなしに、彼の瞼が小さく震え、黒い瞳が私を見据える。

「……おかえり、真白」

 寝起きの掠れた声が囁く。ただ一言、その言葉に返す一言を言いたいのに私の唇は動かない。少しだけ怖かった。何が、と言われても答えられないが、私は彼が怖かった。それ以上に彼のことを……いや。
 何も答えない私を責めるでもなく、彼は微笑んだ。私と同じ年だったはずの少年は、知らない間に大人になってしまった。けれど微笑んだ顔に、かつて泣いていた少年の面影が確かに残っている。彼は私の知っている、あの少年なのだ。

「ただいま……黒崎」

 ようやく絞り出した声に、彼は――黒崎は、微笑んだまま満足そうに頷いた。
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夜の終わりに

眠気に霞んだ視界いっぱいに広がるのは、人気のない、夜更けの街並みだ。ガラス一枚隔てた向こう側の世界はあっという間に過ぎ去り、オレンジ色の街灯と、煌々と輝くコンビニエンスストアの看板の光ばかりが尾を引いて消えていく。対向車線に他の車の影はなく、後続車もない国道の先はよく見えない。それにも関わらず車は法定速度を優に越えたスピードで走り続ける。このまま進み続けた車はどこかにその勢いのままぶつかるのではないか、という恐怖がふと沸き起こる。ただの杞憂だと自分に言い聞かせるように、黒崎は窓から視線を外した。
 あくびを一つかみ殺し、運転席をちらりと見やる。隈の浮いた菅野は気怠げにハンドルを握っていた。
「……煙草臭い」
 とっさに思いついた言葉を口にすると、彼は疲れた顔に薄い笑みを貼り付けた。酷い顔色だ、と指摘しそうになった言葉を飲み込む。まるで今にも死にそうな顔をしている菅野は直視するに堪えず、結局窓へ顔を背けた。
「禁煙したんじゃなかったの」
「そんな話もしたな」
 軽い調子を装った言葉の裏に、確かな拒絶の色を感じ取り、黒崎は押し黙った。黒崎が口を噤めば菅野もまた沈黙を保ち、車内に満ちるのはありきたりなラブソングばかりになる。流行のポップ・チューンの音は耳に痛い。恋の不安を歌う明るい声が無性に馬鹿馬鹿しく、黒崎は手を伸ばして勝手に曲を変えた。車に備え付けられたオーディオの画面に目が眩む。無機質な黒い文字を辿り、結局黒崎が選んだのは、彼女が以前彼に貸した海外アーティストのロックアルバムだった。
 馬鹿馬鹿しいのはポップ・チューンばかりではない。日付の変わり目もとうに過ぎ、夜明けに近い時間にわざわざ車を走らせているのは黒崎の意志ではない。むしろ黒崎はただのおまけのようなもので、隣でひたすらにハンドルを握る菅野が何も前触れもなく黒崎のもとを訪れたのがそもそものきっかけだった。電話やメールも何もなしに、深夜、黒崎のアパートにやってきた菅野はドライブに行こう、とそれだけを口にした。そこで断ってしまえば良かったものを、なぜか黒崎はジャケットを羽織り、財布と携帯電話だけを手にして助手席に乗りこんでしまった。馬鹿馬鹿しいのは己自身だ。何もかもすべて拒絶するような空気を纏った男が、このまま一人で死にに行くのではないかと想像してしまったのだ。
 では愚か者は一人なのかと言えば、きっとそうではない。踏み続けるアクセルはまるで何かに追われているようで、規則正しく並んだ街灯があっという間に消えていく。それと知られないように深呼吸をした。できるだけいつもの調子を装って、口にした言葉が空しくならないように祈る。
「バカだなあ、菅野」
 ハンドルを握る手が震えたのが見えた。
「……いきなりなんだよ」
「そのままの意味だけど」
 軽い調子を装いながら、その裏に深い拒絶を隠し、だというのに黒崎のもとにやってきたこの男を心底愚かだと思う。何もいらないと拒みながら、深夜のドライブに道連れを欲した男は、それを意識している訳ではないのだろう。意地を張った子供が裏腹な言葉を吐き出すように、菅野は深い矛盾を抱えている。彼の矛盾を愚かだと笑いながらも、それと同じくらい、黒崎には愛しい。

ティア・ドロップのあかいかなしみ


 何もかもを忘れてしまいたい。心の底からそう願ってしまうほどのむなしさとかなしさを抱いていた。
 ただのひとことでは言い表すことの出来ない、深い深いむなしさとかなしさは、やがて涙となってわたしの両目からあふれ出す。ぽろり、落ちたのは透明な滴だった。それはわたしの目からこぼれ、なめらかに頬を滑り、膝に転がった。透明な滴はわたしの指に挟まれ陽に透かされる。すると何面にも細かくカットされたティア・ドロップは、宝石がごときうつくしさで涙で潤んだ視界をまばゆく突き刺した。精緻なカットの一つ一つが光を反射する様はあまりに眩しい。透明な涙の粒の向こう側には青空が見え、それがまたわたしの視界を青く染め上げては涙をあふれさせるのだった。
 落ちた涙の滴はけして消えることなく、私の足下に転がっていく。滴同士がぶつかっては涼やかな音を立てるが割れることはない。わたしはこの、たしかな形をもった涙がいったい何なのかを知らない。ただ、そういうものだと受け入れてもはや数年が経とうとしていた。そうなるともう、わたしにとって涙とはこんな、きらきらと輝く石の形をしているものであって、頬を濡らす暖かさや濡れた後の冷たさも、記憶の外へと放り出されて忘れ去られてしまった。はたしてそれが良いことか、悪いことかはあいにく判断はつかない。涙の形をした宝石らしきものはうつくしかったし、拭う手やハンカチを汚すこともなくなった反面、人前で泣くことを耐えねばならない。ひとり静かに泣き、自分の足下を埋め尽くす目映いティア・ドロップを眺めるたび、わたしの心からは何かが失われていくような気がした。
 わたしの目の表面はこんなにも水分で潤んでいるというのに、それが目を離れたとたん、凍ったように形を変えて涙はこぼれる。静かに目を伏せた。なにも見えない暗い世界の中、滴が落ちる高い音ばかりが響く。こぼれ落ちた涙を手で掬うように、必死に集めていた頃はとうの昔に過ぎてしまった。ひどくけだるい。はたしてわたしはなぜ泣いているのか、その理由さえもなくしてしまったのかもしれなかった。こうなってしまったわたしには、こんなになってまで涙を流すことの意味が分からないのだ。ただ、何もかもを忘れてしまいたい。心の底からそう願ってしまうほどのむなしさとかなしさを抱いていた。あるいは、それだけの理由だった。それだけの理由が、わたしの涙腺を奇妙なほどに緩めては、透明な滴を零すのだ。

「花に付いた朝露を飲みなさい」

 白衣を着たその人は、とうとうと涙を流す私を見てひとことそう言った。花に付いた朝露を飲みなさい。朝早く、日の出と同じくらいに起きて、外で待つのです。庭に咲いた薔薇よりも、山際に生えた白い百合の方が良い。ひっそりと花開いた百合の花弁、そのすべらかな表面に光る、ほんの一滴の朝露を飲みなさい。それを百合が咲かなくなる季節まで続けるのです。
 白衣を着たその人を、わたしはせんせい、と呼ぶことにした。白衣に黒い鞄をひとつ持った彼の人は、診察代にわたしの涙を一粒欲しい、と言った。ひとしきり涙を流したわたしは、たくさん転がった涙の滴の中から、特にうつくしいと思ったティア・ドロップを一つ、小瓶に入れて渡した。せんせいは目をすがめてそれを見た。わたしがしていたように、陽に透かし、光の反射に目を細め、うつくしい宝石ですね、とほんの少しだけ、笑った。
 次の日の朝から、言われたようにわたしは日の出と同じくらいに起きて、山際の百合を探した。陽が昇る頃はまだ空気はつめたく、百合を見つけるまでに歩いたわたしの足は草の露で濡れていた。草をかきわける手もまた朝露で濡れ、踏みしめた緑の草の匂いと、水の匂い、そして山の匂いが体中に染みついていた。
 百合は思ったよりも簡単に見つかった。
 大きなつぼみは先端が白く、微かに開く程度で、まだ咲くには早かった。けれどその先端に一滴、朝露がついているのをみとめたわたしは、そっと百合のつぼみにくちづけた。まだ開かぬ花弁の奥から香る百合の香は甘やかで、無気力なわたしの胸にす、と入り込み、ほんのかすかなぬくもりを残していったようだった。失われるばかりで何にも満たされないわたしの中に、それは確かに存在したのだということがうれしかった。ぽろり、と目から落ちたのは涙だったが、そういえば、涙はかなしいときばかりに流れるものではないのだった、ということを思い出し、落ちたそれを指先でつまんだ。心なしか、薄く色づいているような気がした。
 それをせんせいに伝えると、良い方向に向かっている証拠です、と教えてくれた。毎朝朝露を一滴ずつ飲んでいけば、きっと透明な涙は色を変えていくでしょう。けれどこわがる必要はありません。きっと良くなります。教えてもらったお礼に、薄く色づいた涙を先生に渡すと、やはり先生はうつくしい宝石ですね、とほんの少し、笑った。
 百合の花はあっという間に花弁を大きく開いた。日の出と同じくらいに起きて、手足を草の露で濡らし、緑と水の匂いをまとわせながら、わたしは百合にくちづけては朝露を一滴吸った。すでに大きく開いた百合の花はその甘い匂いを惜しげもなく広げ、いつもわたしを待っていた。百合の花弁についた朝露は、百合の香りのように甘かった。それを舌先で感じ、ほんのわずかな水分を飲み干すたび、わたしの目からは一粒だけ、涙がこぼれた。涙はだんだん色づいて、やがて薄紅へと変わっていった。
 このまま朝露を口にしていけば、やがてわたしの涙は色を濃く変えていくのだろうか。薄紅は紅へと変わっていくのだろうか。拾い上げた一粒一粒を、わたしはせんせいに渡すことにした。せんせいはいつも、陽に透かしてはうつくしい宝石ですね、とほんの少し、笑った。せんせいの指の間で輝く薄紅は、目を突き刺すような輝きではなかった。精緻なカットのティア・ドロップはやわらかに輝いて、触れればきっとあたたかい。
 何もかもを忘れてしまいたい。心の底からそう願ってしまうほどのむなしさとかなしさを抱いていた。けれど、忘れれば忘れるほど、抱いたむなしさとかなしさは重さを増した。やがてそれはわたしの手に収まりきらなくなり、地に落ちて、突き刺すような鋭利な輝きでわたしを責める。頬を流れる涙のあたたかさを忘れてどれくらい経ったのだろうか。
 百合は満開を過ぎ、日に日にしぼんでいった。甘い香りは廃れ、うなだれた花は純白を失いつつあった。わたしは日の出と同じくらいに起きては手足を濡らし、百合の朝露を一滴だけ吸った。もうこの頃には、わたしの目から溢れる涙は、はっきりと赤い色をしていた。
 涙はもとは血液だったのだと、教えてくれたのはやはり、せんせいだった。だからこのティア・ドロップは赤いのだ。あなたがどうして血を流しているのか、知っているでしょう、とせんせいは言った。はい、とわたしは静かに答えた。小瓶に収まったわたしの涙の滴は透明から赤のグラデーションとなって、日の光を浴びていた。鮮やかな赤い色が私に言う。体が痛くなくても血は流れるのよ?
 もはや枯れゆくばかりの百合の花の朝露を、もうわたしは吸わない。ただ、水分を失いつつある花弁にそっとくちづけ、残された朝露を人差し指でそっと拭う。そうしてようやくわたしは、涙の拭い方を思い出した。ぽつり、落ちた涙が枯れた百合の上に落ち、まあるい水滴を残した。



mzk_mikは涙のかわりに宝石がこぼれる病気です。進行すると無気力になります。花に付いた朝露が薬になります。
http://shindanmaker.com/339665

七日間鉄道

窓の外は一面が銀世界だった。
 進めど進めど白い世界は変わらず、むしろしんしんと降っていたはずの雪が吹雪へと変わっていく。白い大地は広陵だが、その白さが寒々しさを誘い、霞んだ景色が見る者の心に影を落とす。景色を楽しむには殺伐とした窓の外の世界に、青年はそっとため息をつく。二段ベッドが二つ並んだコンパートメントの中に、青年の吐息は空々しく響いた。
 七日間の列車の旅はまだ始まったばかりだ。かつての故郷へ向かう長い列車は明るい照明に照らされ、足下のストーブが冷たい空気を和らげる。目を閉じれば外を過ぎる人々の足音や談笑する声がよく聞こえた。目的地まで何もすることのない、ただ無為に時間を過ごすであろう列車の中は、まだ人の活気で溢れている。
 コンパートメントの扉が遠慮がちに開かれたのは、青年が自分の荷物を整理し始めた頃だった。音に気付いて顔を上げると、立て付けの悪い扉の隙間からするりと人影が入り込んだ。細身の人影は不穏な音を立てる扉を空いた片手で優しく閉め、青年の方へ振り返る。寝台に広げていた本を片手に自分を見上げる青年に、入ってきた人影は小さく頭を下げた。
 まず目を引いたのは、肩より少し長い程度まで伸ばされた赤毛だった。黒いニット帽やタータンチェックのマフラー、黒いダッフルコート、青いジーンズ、黒いロングブーツ。暗色で統一された衣服とは裏腹に、見事な赤毛がアクセントのように自己主張をしている。後ろ姿から予想はしていたが、赤毛の人物は少女だった。それもおそらくこの国の出身ではないことは顔の造形から明らかで、年齢といい外見といい、この列車の乗客にしてはずいぶん珍しいタイプと言えた。まだ幼さの残る顔立ちは緊張しているのか強張っていたが、少なくとも悪い人物ではなさそうだと青年は評価をつけた。ドアを閉めて振り返るという一連の動作は柔らかで、手にした荷物や身につけた衣服、伸びた赤毛、それらがよく手入れされているのを見れば、善良な一市民であることは明らかと言えた。
 青年の向かい側に当たるベッドにそっと荷物を下ろし、赤毛の少女はもう一度頭を下げた。少女の癖なのかもしれない動作に、さらりと髪が音を立てて揺れる。少女の黒いニット帽は猫の耳のように頭頂部分が二つ尖っていて、そこを飾るチャームも同じように揺れた。

「こんにちハ」
「こんにちは、お嬢さん」

 この国の出身ではないという青年の予想はある程度当たっていたようで、少女の言葉は片言だった。発音がどこか平坦で、使い慣れない言葉を苦労して取り出しているかのようにゆっくりとした発声だ。それに合わせて青年も語調を柔らかに、発声をゆっくりに心がけて挨拶を返した。賢そうな茶色の目はまっすぐに、青年の目を見つめ返してくる。

「同室の、者、デス。どうゾ、よろしくお願いシマス」
「こちらこそ。言葉は、通じるかな?」
「ハイ。ゆっくり発音していただけテ、うれしいデス」

 そこで少女は少しだけ、口元を緩め笑みを浮かべた。安堵の表情に近い。つられるように青年も笑い返す。悪い人物ではないという予想も、どうやら当たりそうだ。

双子の話

――私がお仕えしたその一族の、最後の二人の話をしようと思う。
 雪が降り、積もり、がたがたと風が雪の礫を壁に窓にぶつける冬の季節が、この二人にはよく似合う。それは私が、この二人を最後に見たのがこの季節だったからかもしれないし、そもそもこの土地は厳冬ばかりが印象深いからかもしれない。外が吹雪の昼下がり、暖炉で火が爆ぜる音を聞きながら、向かい合った二人が真剣な顔でチェスをしている。そんな光景をよく覚えている。どちらが白を、どちらが黒を使うか、というのは幼い頃から決まっていた。勝ち負けはおかしいほど同率で、結局彼らのチェスは最後まで、同じスコアを刻んでいた。
 そう、よく似ている双子だったのだ。けれど似ているようで似ていないところもあった。容姿は見間違えるほどではないにせよ、緩やかなウェーブを描く黒髪や白い肌、整った顔立ちが、やはり双子だけあって似通ってはいた。それでいて性格は正反対で、兄は悪戯っ子、弟は引っ込み思案、兄が外で遊びたいと言えば、弟は部屋で本を読みたいと言い出す、内面は似ていない二人だった。だが仲は不思議と悪くなく、最終的には兄が弟の手を引っ張って外に繰り出すか、弟につきあって部屋で一緒に過ごすかで、喧嘩しているところはほとんど見なかったと思う。
 悪戯っ子と言っても兄はたいそう賢い子だったし、弟も語学だろうが剣術だろうがなんでもそつなくこなす子だった。顔立ちも幼い頃から人目を引くもので、この双子の成長が楽しみだ、と誰もが皆羨みそして祝福した。周囲の期待を理解してか、二人は共によく学んだし、これなら一族の今後も安泰だと口々に言葉にした。親のみならず一族や、私のような使用人にさえ多くの期待を背負わされながら、けれど双子は屈託なく笑い、寄り添っていた。
 兄が悪戯をして怒られれば弟は一緒になって謝り、弟が泣き出せば兄は優しい声で慰めた。悪戯めいた笑みを浮かべる兄と、困ったように微笑む弟。二人が揃うだけで満ち足りているかのようだった。テーブルで向かい合い、チェスを打ち、あるいは本を広げ、あるいは熱い茶をふうふうと息をかけながら口にする。焼きたてのクッキーを頬張り、無邪気な表情を浮かべる二人は、本当に、幸せそうだった。

 それが崩壊したのは、彼らが10歳を迎えた年の、やはり冬だった。

 白く広がった雪の庭の、冷たい朝だった。澄んだ空気がきらきらと朝日に輝き、吐く息すらも凍っていくような景色の中に彼は横たわり、彼は立っていた。
 横たわった彼の、兄の周囲には雪を溶かすように赤い液体が流れていた。それが兄の体から溢れたものだと遅れて気付いた。散らばった赤い血は毒々しく、だというのに雪の色とのコントラストがまるで芸術品のようで、私のみならず、駆けつけた使用人達の目を奪った。夜着に覆われた胸に深々と突き刺さった刃の反射、その角度さえも美しかった。散らばった黒髪も、赤く染まった雪も、そして白い庭も、この世の物とは思えない、未だかつて見たことのない至高の芸術なのではないかと、私は感嘆の吐息を零しそうにすらなっていた。

「――にいさん」

 そして、横に立っていた彼は、弟は。
 伸びた前髪の一房が青ざめた頬を撫でて落ちる。寒さ故か、それとももっと別の理由か、彼のまだ幼い顔はまるで死人のようだった。困ったように微笑む、あの子供の顔ではなかった。悲哀、憤怒、後悔、憎悪。そのどれとも違う、いや、それらすべてが混ざった、諦念ともとれる表情は年齢とは不釣り合いで、たった一晩にして彼は、別人になったかのようだった。

「――だめだよ」

 泣きそうな弟をあやすように、優しく言葉をかけるのはいつも兄だった。そしてそれは、赤い血に塗れた庭でもそうだった。

「だめだよ、こんなんじゃあ」

 胸に剣を突き立てられ、血を流し、それでもなお、兄は笑っていた。あの悪戯めいた、少年の顔で。

「こんなんじゃあ、僕はまだ殺せないよ」

 ――私がお仕えしたその一族の、最後の二人の話。死を知らない兄と、唯一死を教えることの出来る弟の話。よく似ているようで、その実まったく似ていなかった双子は、互いに殺すことが、そう、生まれたときから決まっていた。
 横たわった兄は愛おしげに、己に刺さった剣を指の腹で撫でた。弟は顔を歪めたが、結局泣くことはなく、兄の血で汚れた手を強く握りしめただけだった。兄の口から零れた血はまだ赤く、弟の吐く息は白く、厳冬の、何もかもを凍てつかせる朝の空気は錆びた鉄のにおいで満ちていた。